当寺には越後七不思議のひとつ「保田の三度栗」を中心に、親鸞聖人にまつわる三つの物語が伝わっています。
他県にも伝承はございますが、当時は親鸞聖人にまつわる三度栗として伝わっております。
源競の妻の家に宿を取り布教をしていた親鸞聖人が旅立つ日がやって来ました。競の妻は教えを説いてくださった聖人を見送り、道すがら召し上がっていただこうと焼栗を差し上げました。すると聖人は「我が勧むる弥陀の本願、末世に繁昌いたさば、この栗根芽を生じて一年に三度咲き実るべし。葉は一葉にして二葉に分かれて繁茂せよ」と称えて焼き栗を植えられました。聖人が去られた後に焼栗は芽吹き、毎年6月、9月、11月に実を結び、葉の先は二つに分かれて茂るようになりました。
三度栗の「三」は、阿弥陀如来が衆生を救うと誓った四十八願のうちの第十八願の「至心・信楽・欲生我国」を表すと伝わっています。また元が一つで先が二つに分かれる葉の姿は、阿弥陀如来の救いの光明と私たちが称える名号は、ともに阿弥陀如来からいただいたものであるという絶対他力の姿を表すと伝わっています。
当時の三度栗の木は枯れてしまいましたが、現在は若木が育ち、今も変わらず一年に三度花を咲かせております。保田の里の人たちは、この栗の姿に念仏の教えを重ねて大切に守ってきました。
親鸞聖人が越後各地をご布教なさっていた際、保田の里にもおいでになりました。そして聖人は、都から落ち延びて保田の里に居住していた源競の年老いた妻に対して、阿弥陀如来のご本願により私たちは性別や貴賤にかかわらず救われるとお説きになりました。競の妻は大いに喜び、手近にあった布に南無阿弥陀仏の名号を書いていただきました。この布字の名号は毎年7月のお虫干し法要の際にお参りいただけます。
関東の地で念仏の教えを学んでいた専念坊に別れの日がやってきました。京へお供したいと願う専念坊に対して親鸞聖人は、「越後の人々のためにお念仏の教えを広げなさい」とおっしゃいます。そして古木に自らの姿をお刻みになり、「この木像を私と思い、どうかこの前でみんなでお念仏をいただき御恩報謝の思いをともにしておくれ」と専念坊にお与えになった木像が今に伝わっております。