焼栗山孝順寺は、新潟県阿賀野市にある真宗大谷派のお寺です。開基当初は「専念寺」と称し、以後、願成寺、長福寺、本詳寺と名前が変わり、江戸時代中期頃に現在の孝順寺となりました。
焼栗山孝順寺の開基は承元2年(1208年)、親鸞聖人の法弟である「専念坊」が創建したといわれております。専念坊の父、渡邊競(わたなべのきそう)は以仁王の綸旨に呼応し、平家打倒の兵を挙げた源頼政の家臣でした。しかし、平家に追い詰められ宇治の平等院で自害。妻子が保田の里に落ち延びて生活をしていましたが、後に競の妻が親鸞聖人のご教化を被り、その長男源五郎が出家して専念坊の名をいただいて法弟となったと伝わります。
現在の孝順寺の堂宇は、かつて越後の千町歩地主 齋藤家の旧本邸です。地泉回遊式の広大な庭園は、大正5年(1916年)に着工し大正10年(1921年)に完成。昭和3年(1928年)に植樹と建物の建設工事が始まり、昭和12年(1937年)に完成※しました。※棟札による。
齋藤家二代24年間に渡る庭園と建物の工事はそのほとんどを地元保田の人々が担い、合わせて延べ十数万人の人々が携わったと伝わります。これは不況にあえぐ地元に雇用を生むことにより村民たちを救おうという目的もあったということです。
現在は一般公開していないものの、昭和8年(1933年)頃には『詩経』の「甘棠之恵(※)」にちなみ「甘棠碑」が建てられました。その後第二次世界大戦後の農地改革で国に物納、それを当寺が競売にて取得し、昭和25年(1950年)以来現在の住所に遷座しています。
※「甘棠之恵(かんとうのめぐみ)」とは:周の召候が、ある時甘棠(かんとう)の木の下で民の争いごとを裁き和をもたらしました。そこで人々は甘棠の木を大切にして民を思いやる召候の徳を忘れないようにしたという詩が中国の古典『詩経』に収められています。そこから優れた為政者に対する敬愛の気持ちを表す「甘棠之恵」の成語が生まれました。
桃山様式の建物には海外産・国内産の銘木を随所に使用。敷地内には老樹に囲まれた境内をはじめ、五頭連峰を借景として洞庭湖を模した池泉回遊式の広大な日本庭園がございます。
孝順寺のホームページをご覧いただきありがとうございます。孝順寺は越後七不思議三度栗の御旧蹟として宗祖親鸞聖人の教えを伝えてまいりました。また豪農齋藤家の旧本邸を本堂とすることで、越後の豪農文化の輝きのひとつを今も守り続けております。三度栗の示す教えをとおして本当に豊かな命を生きることにお気づきいただくとともに、堂宇や庭園にひととき心を癒やしていただければさいわいです。
焼栗山孝順寺住職 渡邊 秀志